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常設展内企画展示「坪田譲治とびわのみ文庫」【岡山シティミュージアム】

公開開始日:2021年03月08日

岡山市出身の文学者、坪田譲治(明治23〔1890〕‐昭和57〔1982〕年)。すぐれた児童文学を世に出した坪田は晩年、東京・西池袋の自宅敷地に「びわのみ文庫」を創設しました。ここでは、子どもや学生たちに児童書や児童文学研究書などの閲覧・貸出を行い、また雑誌『びわの実学校』を発行する中で、多くの後身作家を育ててきました。
平成22年、この建物が惜しまれつつ解体された際、「びわのみ文庫」の内装と備品を譲り受けた岡山シティミュージアムで、常設展内企画展示「坪田譲治とびわのみ文庫」が開催されています。
常設展内企画展示「坪田譲治とびわのみ文庫」 | 岡山市

坪田譲治 びわのみ文庫の蔵書
坪田譲治(中央図書館所蔵)      「びわのみ文庫」の蔵書      

ふるさと岡山を愛した児童文学作家

坪田譲治は明治23年、岡山県御野郡石井村島田(現在の岡山市北区島田本町)に生まれました。実家は、ランプ芯などをつくる工場を経営していましたが、幼いころに父を病気で亡くします。明治41年に早稲田大学予科に入学し、児童文学作家の小川未明らに師事。卒業後は結婚して家庭をもち、岡山に帰郷して、実家が経営する工場に勤務しながら短編小説「正太の馬」などの作品を発表。その後も上京と帰郷を繰り返しながら執筆活動を続けます。画家・深沢省三の紹介で、坪田の書いた童話「河童の話」が、『赤い鳥』主宰の鈴木三重吉に評価され、昭和2年、同誌に掲載されます。

『赤い鳥』は、大正7年に創刊された児童向けの文芸雑誌で、すぐれた作家や画家、詩人、作曲家たちが集い、日本の近代児童文学や児童音楽を開拓していきました。鈴木は、各作家の原稿に厳しい姿勢で添削の手を入れていたことでも知られており、坪田も鈴木から指導を受けながら作品を発表し、やがて同誌の主要な書き手の一人となっていきます。

昭和10年には山本有三の紹介で雑誌『改造』に「お化けの世界」を発表し、脚光を浴びます。苦労を重ねながら執筆をつづけた坪田の、45歳での出世作でした。以後、「風の中の子供」「子供の四季」などを発表し、作家としての地位を確立していきます。

坪田は生涯、ふるさと岡山を愛し、その情景や思い出を作品の中に多く残しています。
「私の心の中に昔からあった、も一つの強いイメージは、吾が故郷、岡山県御野郡石井村島田であります。(略)その田園風景の中に一人の小さな子供がいて、セミを取ったり、フナを取ったり、カニあみをすいたりする様子が見えました。これは善太でも三平でもありません。実は私の幼い日の姿なのです」(坪田譲治全集第10巻、新潮社)

このように坪田は、岡山での子ども時代を、すぐれた作品に昇華させ、日本における児童文学の第一人者となりました。

展示風景 びわの実学校
          展示風景                  『びわの実学校』        

多くの子どもが訪れ、作家を育てた「びわのみ文庫」

昭和36年、71歳の坪田は、仕事場にしていた東京都豊島区西池袋(当時の表記は雑司ヶ谷)の自宅敷地内に「びわのみ文庫」を開設します。3000冊を超える児童書をはじめとする坪田の蔵書を、近隣の子どもたちや、児童文学を研究する学生・研究者に開放。当時は児童書や児童文学研究書の充実した図書館が他になく、多くの利用者が訪れ、貴重な存在となりました。坪田が居住していたのは東久留米市で、そこから日曜日を除きほぼ毎日、「びわのみ文庫」に通い、子どもたちとふれあっていたといいます。

文庫の名前の通り、敷地内にはびわの木が茂っていました。坪田はびわが好きで、庭にびわの木を植えたところ、人から「縁起が悪い」と言われたそうですが、坪田はむしろ貧乏や不遇を克服する象徴的な存在として、びわの木を見ていたようです(ただし昭和41年、孫の坪田望さん〔7歳〕を脳腫瘍で失った際に切り倒された)。

文庫の運営は、長男の坪田正男とその妻・きね子が担い、児童文学を志す多数の学生がボランティアで手伝いました。子どもの日やクリスマスに「子ども会」を開いて人形劇や紙芝居をしたり、七夕や餅つき、遠足やキャンプなどの行事も行いました。こうした行事を通して坪田は、読書習慣が少なくなった子どもたちに、本に接するきっかけをつくり、読書の喜びを教えたいと考えていたのです。

そして、「びわのみ文庫」の2階を編集の場として、昭和38年、児童文学雑誌『びわの実学校』を発刊します(隔月刊)。かつて坪田自身を育ててくれた『赤い鳥』の精神を受け継ぎ、後身の児童文学作家や画家たちの発表の場をつくり、日本の児童文化を育もうという信念がありました。そしてここから、あまんきみこ、今西祐行、大石真、岡野薫子、神沢利子、砂田弘、高橋健、千葉幹夫、寺村輝夫、鶴見正夫、松谷みよ子、宮川ひろ、宮口しづえ、宮脇紀雄、与田準一など、多くの作家や研究者が育っていきました。

『びわの実学校』は、66号以降は編集の場を東久留米市の坪田の書斎に移し、発売は講談社が引き受けました。昭和57年に坪田が92歳で没した後も発行は続き、昭和61年の134号で第1期を終えます。以後は同人によって第2期として季刊で発行が続けられ、平成8年に終刊となりました。

びわのみ文庫から搬出した家具や備品 軽井沢キャンプの思い出
左:「びわのみ文庫」から搬出した家具や備品(ソファを除く)
右:孫の坪田望さんが書いた軽井沢キャンプの思い出をテキスタイルにしたもの

貴重な資料が語る「びわのみ文庫」の日々

現在、岡山シティミュージアムで展示されている「びわのみ文庫」の品々は、当時のにぎわいを感じさせるものばかりです。

「びわのみ文庫」は、木造2階建て、約66平方メートルの洋風の建物。坪田が印税と借金あわせて150万円を投じ、坪田自身が設計図を書き、若い建築家に依頼して建てたものです。解体前に、色残りの良い部分の化粧材を搬出・保存しており、これを本展示で見ることができます。黄色味をおびた床と赤茶色の壁面の化粧材には、落ち着いた中にも華やかさがあり、坪田のセンスを感じさせます。

また『びわの実学校』のバックナンバーが並び、創刊号から最終号まで一貫して表紙デザインを担った、山高登による季節に応じた美しい版画も見どころです。貴重な挿絵の原画も展示されています。きっと、どこかで見覚えのある挿絵が見つかるのではないでしょうか。

「びわのみ文庫」には、図書館業務に通じたボランティアスタッフが2人いたため、書名だけでなく、雑誌や全集に収録された作品名までをリストアップした手書きの蔵書目録が作られ、児童文学の研究者たちに重宝されていたそうです。蔵書カードや個人登録カードも整備されていました。木製の引き出しに、蔵書カードがびっしりと収納されていますが、岡山シティミュージアム館長補佐の飯島章仁さんによると、「蔵書の内容が時とともにどう変わっていったかを知ることができる、非常に重要な資料で、これを分析していくと様々なことが分かると思います。まさに宝物ですね」とのこと。

また、2階書斎(6畳間)の座卓にあったという、立派な硯箱も目をひきます。漆芸家の松谷春男(松谷みよ子の兄)が制作したもので、「びわのみ文庫」の人脈のゆたかさが表れています。

そして、子どもたちが作った文集や、クリスマス会用のポスター、キャンプで使った飯盒、餅つきの臼と杵なども並んでいます。坪田をはじめとして一流の作家や画家たちが出入りする「びわのみ文庫」で本を読みふけり、季節ごとの行事を楽しみながら育った子どもたちは、なんてぜいたくで幸せだったんだろうと思わずにいられません。作家たちにとってもまた、子どもたちから刺激を受け、ヒントをもらいながら交流を深め、すぐれた作品を生み出す契機になったのではないでしょうか。

晩年の坪田が情熱を注いだ「びわのみ文庫」。そこに遺された貴重な資料には、坪田譲治や、たくさんの人たちの思いが詰まっています。

びわの実学校のバックナンバー びわの実学校第9号の挿絵の原画
 『びわの実学校』のバックナンバー        『びわの実学校』第9号の挿絵の原画

びわのみ文庫の図書カード 図書カードを収めた引き出し
「びわのみ文庫」の蔵書カード         蔵書カードを収めた引き出し

松谷春男による硯箱 びわのみ文庫2階の書斎に置かれた座卓
     松谷春男による硯箱          「びわのみ文庫」2階の書斎に置かれた座卓

【お問合せ・連絡先】

市民生活局スポーツ文化部 岡山シティミュージアム
岡山市北区駅元町15-1
電話:086-898-3000  FAX:086-898-3003

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